一体、どういうことだ。
「さっき俺が消したのはほんの一部の酷だ、まだまだいるぞ?てめぇ狙ってんのは」
先ほど見たものよりも、黒の密度が濃い、気がするのは気のせいだと願いたい。
どんな夜よりも、どんな闇よりも、絶対に触れたくないと思う。
今度こそ吐き気が押し寄せた、口を押さえて生理的な涙が頬を伝う。
こんな存在に狙われるだとか、どれだけ最悪なのだろう。
「【ちょっとした細工】のせいでこいつらここまで上がれねぇから、良い【練習台】にはなるな」
顎に指を添えつつ、言ってのける沙羅さん。
練習台。聞こえてきた単語から想像出来るものは、決して良いものではない。
まさか、今からその闇影とやらになるための何かを、私にさせる気なのか。
未だに世界観すら掴めていないというのに、納得も完全に出来ているわけでもないのに。
そんなこと無理だ、出来るはずがない。
「まっ、待って、いきなりはちょっと」
「呑気にしてらんねぇんだよ、俺達が消えればすぐにまた酷は来る。一つくらい【覚えといて】もらわねぇと」
「?、…覚えるって」
ことだま
「【言霊】、って奴だ。……細けぇことは明日説明してやる、とりあえず文句言うな。従え」
結局は、こうなるのか。
面倒くさい、そう思っているのだろう。顔を顰めている沙羅さんを見れば分かる。
とうとう命令されてしまえば、それに反抗出来るはずもない。
溜息をつきたかったが心でそうして、私は肩を落とす。
「……分かりました、それで私は何をすれば?」
「俺がこれから教える言葉を、あの酷へ向かって叫んでみろ」
おもむろに私の机からペンとメモ帳を取った沙羅さん、何かを書くと乱暴に引き千切った紙切れを渡してきた。
訝しみながら見てみると、たったの二文しか書かれていない。
しかも後半は文というよりも、もう単語だった。
だがふと思い出した、先ほど彼女が私に対して言った言葉がそれだったのだ。
【強制帰還執行】。
一体、何の意味があるんだか。
受け取ってから思わず考え込んでしまい、さらに彼女を苛立たせてしまった。
「ごちゃごちゃ考えずに、とっととやれ」
相変わらず私達に近づけない酷は、悔しそうに辺りを漂っているだけ。
そういえば動いている速さが増している気がする、何やら嫌な雰囲気。
それを察したこともあるのだろう、沙羅さんが思いっきり睨んでくる。
いや、彼女自身は意識していないのかもしれないが、――脅しとしか取れない。
慌ててその紙の言葉をもう一度だけ確認し、私は意を決する。
普段ならあまり大声で言いたくない、まるで何かの呪文のようなセリフ。
「 月下の裁きを受けよ
強制帰還執行 」
なるべく腹部に力を籠めて、大きな声で叫んだつもりだった。
言ってから気が付いたが、月は完全に雲に翳っている。
そんな時にこんなことを言って、いいものか。
というより、効果なんてあるのか。
「……」
「あーぁ、てめぇ素質ねぇのか?」
「知りませんよそんなこと!!」
思った通り、全く何ら酷達に変化などない。
ただ私の声が空しく空間へ融けただけで、それ以外何も起こらない。
とてつもなく惨めな気分だ。
何より、恥ずかしい。
頬の温度が上昇するのが分かって、俯いてしまった。
その光景に溜息をついた音が届く、さらに泣きたくなる。
「―――あのなぁ、【集中】って言葉知らねぇのかよ」
けれど意外にも、それ以降に聞こえたのは貶しでもなんでもなかった。
「っは?……集中って、例えば勉強に集中するとかの、ですか?」
「違ぇよ、【自分の全てを一点に圧縮する】ってこった。ただ単に言うだけで効果あると思うなよ?」
呆れるようにそう零した沙羅さんは、もう一度あの言葉を言うように要求してくる。
そんなこと言われても、意味が分からない。
自分の全てを一点に圧縮させるだなんて、どんな感覚なのか。
しかし、かといってこのまま何も出来ないで終わるのは困る。
とりあえず、私の思う集中の考え方でやってみることにした。
(あの酷達に集中する、…ってことでいいのか?)
気持ち悪い光景であったのだが、その黒を見続けるしかない。
確かに、さっきは単に叫んだだけに過ぎない。この存在達へ何かしようとする【気】がなかった。
今度は違う、あの酷達に【消えて欲しい】という私の願いを上乗せしてみた。
「 月下の裁きを受けよ
強制帰還執行 」
言い終わった瞬間、先ほどにはなかった感覚が湧き上がる。
さっき沙羅さんにされてしまったものと似ている、何かが私から抜け出るような。
けれどさっきと比べて気持ち悪さなどはなかった。
「おっ、良い感じだな」
横でそう沙羅さんが呟いた時。
何が良いのか、と聞こうとする間もなかった。
私の体が、空気に引っ張られた。
「!?ぇな、ちょ、はぃい―――――ッ!?」
あっさり窓から飛び降りる形となる、しかも加速度付きだ。
下は勿論アスファルトで固められた道路、全身強打なんてシャレにならない。
その前に黒き渦へ突っ込む形となって、防衛本能で息を止める。
なるべく、それを体内に入れたくなかった。
(ぶっ、ぶつかる、ぶつかるってッ!!)
両腕で顔を覆ったが、そんなもの大した防御にはならないだろう。
骨折を覚悟するしかなった、――それだけで済むことを祈るしかなかった。
その刹那に、沙羅さんが【良い感じだな】と言っていたことが頭を過ぎる。
どこが良いと言うんだ。それに私が飛んで行こうとしているのに、助けようともしてくれなかったじゃないか。
怖さやら怒りやらの入り混じった瞬間、地面がもう迫りすぎていた。助からない。
来るべき衝撃が予想できて、全身が強ばってしまった――――が、それは無駄な行動となる。
「いやぁどうもすみませんねぇ、あの人無茶苦茶することだけは得意なんですよ」
緩やかに、着地。
まるで見えないクッションに全てを吸収されてしまったような、そんな感覚。
誰かの両腕にすっぽり収まってしまったようだ、しかし先ほどまで人影の一つも見えていなかったはず。
一体全体何者なのか、と顔をすぐに夜空へ向けた。
その先には、シルクハットと黒髪の三つ編みがあっただけ。
← →